狩野探幽の世界:狩野探幽

狩野探幽

狩野探幽は江戸時代の狩野派を代表する絵師です。狩野探幽は時期的に、江戸時代前期に活躍した絵師になります。狩野永徳の孫にあたるのが狩野探幽です。後の絵画界に大きな影響を与えた人物であると言えます。

狩野探幽が生まれたのは1602年。狩野探幽の没年は1674年になります。

狩野探幽は早熟の天才として知られています。幼少期より天才絵師と呼ばれていたのが狩野探幽です。

わずか11歳という年齢にして徳川家康に謁見を許されるほどの技術を持っていた狩野探幽という絵師の実力は、若干16歳で幕府の御用絵師になったことからもうかがい知ることができます。確かに狩野家は代々幕府御用絵師の家柄でしたが、狩野探幽16歳という年齢は異例中の異例。まさに狩野探幽は天才絵師であったといえるでしょう。

1662年、狩野探幽61歳のときに絵師の最高位である法印に叙せられています。73歳で世を去るまで、狩野探幽は旺盛な筆力を振るい続けました。

また、狩野探幽は努力の天才であったことも、膨大な数の古画を模写した「探幽縮図」からわかります。

幕府御用絵師になった狩野探幽は、徳川幕府の多くの建築物に狩野派の統率者としてその腕を振るいました。狩野探幽が狩野派の絵師を束ねて製作したのは、江戸城内の障壁画はもとより徳川家の霊廟装飾、二条城、名古屋城上洛殿、大阪城、大徳寺などの多くの大寺院の障壁画など、本当に多岐に渡っています。

こうした狩野探幽の活躍が、江戸時代の狩野派の確固たる地位を確立したといってよいでしょう。

狩野探幽は狩野派伝統の技法を受け継ぎつつ、独自の「余白」を使いこなしていました。余白をたっぷりと取った穏やかな画風が、狩野探幽の後年の作品には数多く見られます。


また狩野探幽は、室町時代から続く狩野派の伝統的技法を江戸時代にあわせて改変していきました。以後長年伝承されていくことになる狩野派様式の基礎を確立したのが狩野探幽なのです。

狩野探幽は狩野宗家でありましたが、19歳で末弟に狩野宗家を継がせ、狩野探幽自身は鍛冶橋狩野家を起こしました。江戸城鍛冶橋門の近くに狩野探幽が住居を拝領したことから、狩野探幽の系統を鍛冶橋狩野と呼ばれます。

なかなか子宝に恵まれなかった狩野探幽は、刀剣工家の息子を養子にしていました。狩野探幽が実子を授かったのは狩野探幽50歳を過ぎてからのことになります。それ以後は実子が鍛冶橋狩野家を継ぎますが、残念ながら鍛冶橋狩野家からは狩野探幽以後は傑出した絵師は出ませんでした。